このブログでは、宗教関連の記事を載せることがあります。不愉快に感じる方もいるかもしれませんが、ご了承ください。

悪いことは言わない、一度は見学したほうがよい場所

皆さんはキリスト教についてどんなイメージをお持ちだろうか?


左の本は「聖書」で、どこのキリスト教会でも用いられる。
聖書には主に、「新共同訳聖書」と「新改訳聖書」に分類される。
内容はほぼ同じであるが、書式が異なる。

右の本は「讃美歌21」で、多くの教会で用いられる。
主に礼拝の時間に歌われるが、

1.祈祷会
2.各種行事(クリスマス・イースター など)
3.冠婚葬祭(結婚式・葬儀 など)

でも使われる。

教派(一般的な言葉でいう「宗派」に相当する)によって内容が大きく異なる。

聖書と讃美歌はキリスト教書店で販売されており、一般人でも購入可能。


背面に聖書の種別が書かれている。これは「新改訳」である。


聖書を開いてみると、
細かな文字がたくさん並んでいるが、
これはイエス・キリスト(歴史上では「ナザレのイエス」という呼び名が使われることもある)
と弟子たちによって書かれている。

ここで重要なのは、

神の教えについて語っているのであり、著者が勝手に考えて書いているのではない、ということ。

それ故、「人が書いたものではなく、神が書いた書物」だと信徒たちの間で伝承されている。

私は富山県に住んでいるが、その地域は浄土真宗王国であることは多くの人々の間で知られている。
富山県に限らず、仏壇を置いてある家も多い。
(皆さんは一度は見たことがあると思う)
この国では様々な偶像を目にする。
何かの願いが叶うことを願って、偶像を拝む人の姿を私は幾度もなく見てきた。

物騒な言い方をすれば、
「偶像に願いを叶えるための道具として捉え、偶像の上に人が立っている」
と解釈することもできる。

ところが基督教ではこの概念が全く通用しないのである。
「人間は神によって創造されたものであり、神の支配下に置かれる」という教えである。
神は人の欲望を満たすための道具ではない、とも言える。
(偶像はおろか、金銭も神としてはならない)

1996年の夏、とあるキリスト教会を訪ねてみた。
そこでは日曜日の午前中に礼拝が執り行われるが、
その後、信徒たちによって作られた食事が信徒および教会を訪れた人に提供されていた。
初めての人は無料、2回目以降は300円で、食べ放題である。

一般的な飲食店ではあり得ないことである。
それもそのはずで、その食事はボランティアが作っているのである。
「なぜ、300円なのか?」について信徒に質問してみたが、回答を得ることはできなかった。
300円というのは、「一回の食事で最低限必要な金額」という思想から来ているのかもしれない。

その教会では洗礼を受け、信徒となる人が多かった一方で、脱会者も多かった。
当時行われた礼拝は受けのいい内容が多く、癒しのスポットとして訪ねる人も多かった。
実態はどうだったのかは私の知るところではないが、
何かのサービスを享受する目的で洗礼を受け、教会員になった人も多かったのではないかと思われる。

一般人にはあまり知られていないことではあるが、
ここに訪問者が陥りやすい落とし穴が潜んでいるのである。

初めて教会に足を運ぶ人は、

1.求道者
2.訪問者

のいずれかに該当する。

この場合、以下のことをしていても全く問題ない。
ただし、教会の一員として認知されない。

1.献金箱に金銭を入れず、無視している
2.自宅に仏壇などを置いてある
3.贅沢三昧な生活をしている

ところが、洗礼を受けて教会員になると、立場が一変することになる。

洗礼を受けて教会員になることは、
単に会員として登録されるだけでなく、神の家族の一員になることでもある。
訪問者とは異なり、教会に対して責任を背負うことになる。

1.享受する側から、献身する側へと回る
  (この点が無意識のうちに勘違いしやすい部分である)
2.献金が「完全自由」から「義務」に変わる。
  献金箱に金銭を入れることは、
  「神様から頂いた恵みに感謝して捧げる」という宗教的な意味がある。
3.地域社会との関係が変わる。良くも悪くも。
4.仏壇などを設置していた場合、処分しなければならない場合がある。
5.檀家制度に加入していた場合、脱会しなければならない
  (これが面倒で、かつ辛いことである)

何らかの理由で脱会する場合、
ウェブサイトのボタンをクリックすればよい、という訳にはいかず、面倒である。
(「退会」というより、「離婚」に近い)
脱会する人が多い教会もあれば、
脱会者がほとんどいない教会もある。

教会という建物に信徒が入るのではなく、
まず共同体(コミュニティ)があって、そこに神から建物が与えられるというイメージで捉えるとよい。

基督教とは、
「神様を信じる」というより、「神様を信頼し、神の教えに従って生きる」宗教であるといえる。


著作権の関係上、しおりで隠してあるが、
讃美歌は単なる歌ではなく、歌うことで神への謙遜を示すという意味を持つ。

教会での日曜礼拝を見学する際に留意すべきこと

教会を訪ねる際、予約は不要で、事前に連絡する必要もない。
日曜礼拝が始まる時間を確認し、30分前には現地に着くようにする。
時間に遅れると礼拝堂に入れなくなる教会もある。
観光施設ではないので、礼拝堂では騒がないように。
スマホの電源は切っておく事。礼拝中は席に座ってもよい。

説教を何回か聴いていると、良い話が少ないことに気づく。
娯楽として楽しむためではなく、神の言葉を聞くために信徒たちは集っているのである。
礼拝の中心は神父でもなく、牧師でもなく、神が中心である。
信徒たちは神に繋がっているのである。
単なる人の集まりではない、という事。

教会には十字架が付いているが、十字架はイエスが人のために命をささげたことのシンボルであり、偶像ではない。信徒が崇めているのは十字架そのものではなく、あくまでイエス様である。

基督教には500を超える教派があるが、
「偽物」として分類される教会もある。
「偽物」として分類される教会にも十字架が掲げられているが、
もし、それがなかったなら、趣味のサークルとあまり変わらず、ただの人の集まりにしか見えなくなる。説教者が神を都合よく利用しているのであり、聖書のなかにある「おいしい言葉」を抜き出して語っているのが特徴である。

どこの教会に行けばいいのかわからない人は、「日本基督教団」の教会を訪ねてみるとよい。
たとえガッカリすることはあっても、無駄足にはならないだろう。

日曜礼拝の最中、以下の文言を耳にすることがあるかもしれない。

主の祈り:

天にまします我らの父よ、願わくは御名を崇めさせ給え。御国を来らせ給え。
御意の天に成る如く、地にも成させ給え。我らの日用の糧を今日も与え給え。
我らに罪を犯す者を、我らが赦すごとく、我らの罪をも赦し給え。
我らは試みにあわせず、悪より救い出し給え。
国と権と栄とは限りなく汝のものなればなり。アーメン。

「アーメン」とは、「その通りです」という意味であると同時に、
「私はイエスの教えを信頼し、生きていきます」という誓いの言葉でもある。

使徒信条:

我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。
主は聖霊によりてやどり、処女マリアより生れ、
ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、
死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、
全能の父なる神の右に巫したまえり、かしこより来りて、
生ける者と死ねる者とを審きたまわん。
我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、
身体のよみがえり、永遠の生命を信ず。アーメン。

これは「日本基督教団」で唱えられる文言である。あくまで一例として考えておけばよい。
教派によって内容が違っていたり、無かったりする。

上記の2つの文を読んでみてどう感じただろうか?
読者の中には、「ずいぶん現実離れしてるな」という印象が残った人もいるのではないか?
基督教は「人」ではなく、「神」を中心に据えている。
この点が一般人には理解しづらいのである。

これは新約聖書の中から、2つの話を抜粋したものである。

そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子供たちを連れて来た。
弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスは言われた。
子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」そして、子供たちに手を置いてから、そこを立ち去られた。

子供を祝福する
マタイによる福音書19章13節~15節

この話は聖書に触れたことのある人であれば知っている、有名なお話である。
緑色の部分を読んだ限りでは、「いい話」であるが、全体を読んでみると・・・

群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」
イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」
そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きていくだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」

「愚かな金持ち」のたとえ
ルカによる福音書12章13節~21節

先ほどの箇所とはうってかわって、話の内容が硬い。
人を戒める内容である。

以下の2つは聖書から抜粋した箇所と解説が記されている。

他の神々に従っていくな。彼らに仕え、ひれ伏してはならない。お前たちの手が造った物でわたしを怒らせるならば、わたしはお前たちに災いをくだす。
(エレミヤ書 25章 6節)

異教の神だけを指しているのではありません。お金や地位、自分自身を神とし、それに固執し、真の神様を扉の外へと追いやることはないでしょうか。礼拝や祈り、奉仕はただ神様の御前で行われているでしょうか。神様はすべてを御存知です。主の御前に相応しく生きましょう。

しかしわたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです。
(ペテロの手紙二 3章 13節)

今がよければそれで良い、という生き方があります。それは、過去も未来もどうでもよいということです。ある意味あきらめながら生きているとも言えます。イエス様を信じる人の生き方はそうではありません。将来約束されている神の国の希望から現在、そして過去を見て、今与えられているイエス様との交わりを喜びます。これは神の国を待ち望む生き方です。

イエスの教えに触れてみてはどうだろうか?

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